あの日
あの日、大瀬にいました。
はごろものサービスのなかにいたらコトコト小さく揺れれはじめた。最初は「あ、地震だね~。」「いや地震じゃないよ~。」と言い合うくらいだった。
初期微動から本震に変わり始めて「これは大きい」「みんな外に出よう」と外に出たら、うねるような、今まで経験したことのない大きな振幅の揺れが強くなり、器材洗い桶の水がざぶんざぶんとこぼれ始めました。
初期微動があれだけ長い(震源が遠い)のに、本震が大きい事にぞっとしました。「どこかで間違いなく巨大な地震が起きた」と確信して収まったころに急いでサービスに入りテレビをつけてもらいました。
東北地方で震度7
大津波警報
画面に表れる非現実的な感覚。
どう表現していいのか?
慄然とした。
カミサンのお母さんは仙台出身。親族が沢山仙台方面に住んでいます。偶然にも伯母さんの無事がすぐに確認できたものの、めちゃめちゃな様子。そのほかの親族の無事がまったく確認できません。(その後、近い親族は無事だとわかりましたが、家が傾いたりしました。遠い親戚は津波うけた方もいたそうです)
僕も東京に一人暮らしの母、伯父
取手に住む姉家族の無事が確認できず焦りました。
しばらくして姉のほうは携帯会社の災害伝言版でとりあえず無事を確認。母はしばらく確認できませんでした。まさかマンションの一室でタンスに押しつぶされたかもしれないと気が気ではありません。
後で聞くと、母は御茶ノ水の病院にいたときに、地震にあったそうです。巣鴨に帰り着くのに何時間かかったでしょう。家についたらタンスは倒れ、食器は割れ、室外機が傾いてたそうです。姉の家は取手で室内はめちゃくちゃだったそうです。甥と姪も無事でした。
カミサンと僕は数分で器材を片付け、車に飛び乗り、ぴろ社長のいる保育園へ走りました。その後大瀬は潮が引き、湾内浅場のロープが出るほどだったといいます。保育園に飛んでいき、子供を引き取り、家にたどり着きテレビをあわててつけると、まだ情報はほとんど入っていませんでした。
そしてそのあとに入ってきた空撮の津波画像。今まで生きてきた中で
これほどおぞましい静かな映像を見たことはありませんでした。たぶん一生表現できません。
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ちょうどモビーズの営業の方とがオーバーホールセミナーで、はごろもにいらしていました。(モビーズ本社は石巻)そしてオーバーホールの先生は石巻のダイビングショップのオーナー。お二人は急遽帰ろうとしたが足止めをくらい、一週間かかったそうです。
お店は流されてしまったけど、ご家族はご無事だった様子。モビーズは工場は被災したが津波はくらわず、とりあえず解散したのち自宅に戻った沿岸部の社員の方は首までつかるくらい津波に出会ったひとが何人もいたそうです。
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僕は高校生の頃、祖母に関東大震災と東京大空襲の話をしてもらいました。自分からは話そうとはしませんでしたが僕が訊くと良く話してくれました。
祖母は浅草の人でしたから、子供心にも関東大震災のとき荷駄から荷駄へと飛んでゆく炎を覚えているそうです。火は空を焼き焦がしこの世の終わりのようだったと。東京大空襲も池袋に住んでいて直撃しています。火の子を避けるためにどぶ川の橋の下に入りひたすら耐えたといいます。
両方とも死亡・行方不明者は10万人以上
想像だにできぬ苦しみと悲しみと挫折感にもがき苦しんだと思います。それでも助け合って乗り越えてきた祖母、母の世代にいま、我々の人生は恩恵を受けています。
今、日本はさまざまな苦しみにもがいています。
でもきっと前を向いて懸命に歩いていけば
次の世代に残せるのではないかと信じています。